2005年 10月 26日 ( 1 )

2005/10/25

オレが歴史オタクなのは周知の事実だ。
最近、「中大兄皇子」伝を読んでいる。
一種の違和感を感じるがなかなか面白い本である。

その違和感とは何か。

そもそも時代小説で最も大事な要素は時代考証である。
現代の時間の中で生きている人間にとって
昔の話は頭の中で想像することしかできない。
読者に現実感を与るのは日常生活や風俗の細部の描写だ。
けして、人物の発言や史実の説明ではない。

だとするならば、ある種の事件に絡む人物の相関図ではなく
その当時の日本地図から言葉遣い、平均寿命や一般市民の生活の喜び等
一見脈絡の無いようなあらゆる情報が無ければならない。
情報、つまり歴史資料だ。

ここで、この本に関して一つ重大なことがある。
飛鳥時代の日本には製紙技術が存在していない。
木簡は存在していたがごく少量の情報しか記録できない。
加えて木簡は貴族の儀礼に使用されるものだ。
その時代の一般の文化や風俗に関して記録するというような
性格のものではない。
結果、歴史資料が絶対的に不足する。

十分な歴史資料が存在しないとするならば
正確な時代考証というものが不可能に近いことになる。
時代考証が不可能になるとすればそこには歴史小説としての
楽しみではなくあくまでSF小説としての楽しみ方しかできないわけだ。

以前、NHKの2時間ドラマで聖徳太子をやった。
感想は様々だが少なくともオレはこのドラマを
ものすごい画期的なものとしてとらえている。
聖徳太子は歴史上類を見ないほど後世の人間に支持をされている人間だ。
にもかかわらず、今までこの人物を主題にしたドラマや映画はほとんど存在していない。
主題にしたくても資料が少なすぎて主題にできないのだ。
NHKとしても勝負だったのだろう。
資料が少ない主題に対して「歴史ドラマ」と銘打ったわけだから。

同じような理由で今年の大河ドラマ「義経」も注目に値する。
(ちょっと軽い感じがするのがもったいないが)
もちろん平安後期・鎌倉時代については多くの信頼できる歴史資料があり、
時代一般の描写は可能だろう。
しかし、歴史とは常に勝者の側から見た目で書かれる。
敗者である義経に対する歴史的記述は勝者である鎌倉側の作成のものが多いわけだ。
鎌倉側に都合の悪い事実はことごとく消される。
秀吉が光秀について記録した内容には
ことごとく光秀が悪人として描かれているのと同じ理由だ。
だからこそファンの多い人物にもかかわらずなかなかドラマ化できなかった。

ただ、歴史小説であれSF小説であれ、
小説である以上は創作であることに問題はない。
今回読んでいるものは今まで読んだものと少し「毛」が違うわけだが、
その時代に対して思いをはせる楽しみというものが損なわれない限り、
オレにとって十分に楽しめるものであることは間違いないわけだ。
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by porori001 | 2005-10-26 01:35